スタイリングをさせていただくと、
提案したお洋服たちが
「いままで自分が好きだと思っていたものとは全く違う!」と驚かれることがあります。
最初は、一瞬、抵抗を感じるかたが多いようです。
(実際に着ていただいたらときめきに変わるのですが)
今日はそのことについてお話してみます。
「好きなものを着るのか似合うものを着るのか」
わたしの考えは、まずは似合うものを、と思っています。
例えば、わたしの好みは、シンプルで実用的なものです。
装飾性のあるものより機能美が好き。
色は、くすんだスモーキーな色やダークトーンの色が好きです。
ですが、わたしはパーソナルカラースプリング×骨格ウェーブ、
そして40代でもあるので、
お洋服でこれを着ると、とたんに、「生活に疲れた人」になります。
(若いうちは、若いってそれだけでエネルギーが強いので何でも似合わせる力があるため着られます)
好きなものを着る喜びや、しっくり落ち着く感じよりも、
鏡に写った自分を見たときに疲れた顔に見えるがっかりのほうが大きいし、
パキッと彩度の高い派手な色と華やかなデザインの服を着ています。
インテリアと下着だけ、好きなテイスト、好きな色で揃えています。
お部屋はぼんやりした色で実用的なものだけが置いてあります。
美術館みたいな静かな感じが好きなんですね。
好きを中心に選ぶのは、とても素敵です。
似合う似合わないを通り越して、好きを選んで輝いてる人もいますよね。
なんですが、ほとんどの人の場合(わたしもです)、
自分の「好き」や「落ち着く感じ」って、
自己否定の先にあるもの、
自分らしさの反対を「好き」「なりたいもの」と思っていて、
その否定の中で生まれた自分独自の「こうあるべき」というルールに沿ったものを
「落ち着く」「しっくりくる」と感じていることが多いです。
いまの自分をどこかでダメだと思っているとき、
その反対の特徴を持つものがよく見えるし、憧れます。
たとえば、
天真爛漫な少女のようなかわいらしさを持っていたとして
どこかでその自分らしさを否定するようになると
(魅力というのはでっぱったところなので、否定されやすい部分でもあります。
やっかみもありますしね。
それが繰り返されると、自分でもよくない部分だと思いこむようになります)
きちんとして、真面目で、知的で、といった印象を与えるものに憧れるようになります。
お洋服もそんなものを選ぶようになります。
ふわふわかわいらしく華やかなものが似合うのに、
きちんとして、真面目で、知的で、といったスタイルに寄せていってしまったりします。
自分以外のことだと見えたりしますので、まわりに思い浮かぶ人がいないでしょうか?
色気がこぼれ落ちているようなのに、かたくなにボーイッシュなお洋服を着ている人とかね^^
たとえばわたしの場合だと、
物理的な美人ではありませんが、独特の透明感や存在感があるようです。
でも、
そのことで傷つくことが多かったからなのかなと思いますが、
知的で地味で装飾性の少ないものが着たかったし、
落ち着いて真面目そうなものに寄せていこうとする傾向がありました。
特に何をしたわけでもないのに、
なぜか「自分は無害でみんなと同じふつうの人間である」と証明したいという、
焦燥感のような感覚があったんですね。
シンプルで装飾の少ないシャツとパンツ、とか。
自然と調和しているようなナチュラルでアーシーな草木染めのお洋服とか。
目立ちたくなかった。
真面目そうでいたかったし、調和的そうでありたいと思っていました。
でもあるとき当時のボーイフレンドに、
「ナチュラルコスプレもういいんじゃない?チャラチャラしてないと嘘つきに見える」と言われて
「ガーン!(図星の)」となったことがありました。
きっとまわりの人たちは、
わたしの「ナチュラルさ」「地味さ」に違和感を感じていたんだと思います。
似合わない(着てみても輝かない)のは
うっすらわかっていたから、
自分でもなにかがチグハグで落ち着かない感じがありました。
スタイリングを申し込んでくださるかたも、そんな違和感を感じているかたが多いです。
好きなものを着ているはずなのに、なんだかしっくりこない感じ。
それは、「好き」や「なりたいもの」が
いまの自分らしさの反対側、
自己否定の先にあるものだからじゃないかな?と感じています。
なので。
「好きを選ぶ」というのはとても素敵なことではあるのですが、
多くの場合、
自分が思っている「好き」「なりたい」「憧れ」は、
いまの自分の反対側、自己否定の先にあります。
スタリングでは、そこを見ています。
パーソナルカラーや骨格も見ますが
(ご自身で再現されるときにロジックがあるのはとても役に立ちます)、
その人の光はどういう形なのか。
その人が自分で闇としているのはどういう形なのか(なにを押し殺しているのか)。
たいていこのふたつはイコールなので、
もっとも輝く形をまとうとき、わたしたちは自由になります。
(それに違和感を感じない=どこかでインストールしてしまった自己否定がほどけたということ)
自分のことが大切にできるようになります。
(ご自身のきれいを受け入れる=自分の闇だと思っていたものが幻想だったことに気づく)
ここでしていることは、
おしゃれのレッスンではなく、
お洋服やメイクの力を借りて、
自分はいままでも醜くなんてなかったんだと気づいたり、
自分を大切にしたりできるようになるお手伝いです。
自分のことが大切だなと思えるようになったとき、
好きだと感じるものは、ほんとうに好きなものです。
似合うものとも、ほとんどの場合で一致します。
一致しなくても、魅力的で輝いています。
まわりから見ても自分にとっても、違和感は感じなくなります。
わたしが望むことは、
みんなが自分を大切に愛せるようになって、
自由にしあわせにほっとして生きられるようになることなので、
自分を大切な存在だと思えるようになったら、
お伝えしたことはみんな捨ててもらってかまいません。
お洋服も、そこにたどり着くまでの船です。
ルートはなんでもいいんです。
瞑想だって、修行だって、はたまた恋をするのだって。
女子は、自分のかわいらしさに気づくと、
とたんに自分を大切に思えてしまったりするかわいくいとしい生き物です。
自分を美しく、大切に、自由に思えるようになるまでの
形状記憶の型として、ご提案するお洋服たちを使ってください。
わたしたちは、
自分でいつのまにか握るようになった、
独自の「こうであるべき」というルールに縛られ、
そのなかに自分を収めようするのが習慣になっています。
お洋服も、
「(その独自の)基準から外れていない」ことを
証明するためのものになっていたりします。
でも、本来、お洋服は、自分の生を祝福するものです。
自分の生を祝福している人は、まわりの人たちの心もぽっと照らします。
「きれい」は力になってくれます。
今日もこちらのブログをお読みいただきありがとうございます^^
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